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青森地方裁判所 昭和23年(行)29号 判決

主文

被告青森県農地委員会が昭和二十三年五月二十六日した「被告板柳農地委員会において昭和二十二年九月十一日自作農創設特別措置法により別紙目録二(一)(二)(四)(七)記載の各畑計一町九畝二十七歩及び(六)記載の田の内(原告の選択する)二段三歩合計一町三段歩についてした買収計画決定を是認する旨の訴願棄却の裁定」

はこれを取消す。

原告衷のその余の訴はこれを却下し原告義弘のその余の請求はこれを棄却する。

訴訟費用は各自弁とする。

事実

原告訴訟代理人は(一)被告板柳農地委員会が昭和二十二年九月十一日自作農創設特別措置法により別紙目録一記載の土地についてした買収計画決定(二)被告青森県農地委員会が昭和二十三年五月二十六日した「被告板柳農地委員会において昭和二十二年九月十一日同法により別紙目録二記載の土地についてした買収計画決定」を是認する旨の訴願棄却の裁定はこれを取消す。との判決を求める旨申立てその請求の原因として原告義弘は明治二十年十二月十九日青森県北津軽郡板柳町大字小幡字柳川八十二番地一号(以下家郷と呼称する)で農野宮勝之助(同人の父祖六代も同所に居住して農業を営んで来た。)の長男として出生し、同地の高等小学校卒業後当時同地で水田二町六反歩、畑一町歩を自作していた父勝之助の手助けをし昭和十年十月二十四日父勝之助の死亡に因りその家督を相続すると共に家業農をも伝承し昭和十二年までこれを継続していたが昭和十三年手不足のため耕作範囲を家宅の周囲にある畑約五反歩に減縮した。ところで同原告は少年時代から数学に興味を持ち、独学研修教師の免状は受けなかつたが漸次自信ができたので「三日でもよいから教壇に立つことができれば本望だ。」と願つていたところ偶々宮城県黒川郡吉岡町所在同町立高等女学校に数学の講師が欠けたので昭和十九年四月一日齢五十有八、同校に数学教諭嘱託として単身赴任、辞令の上では同年三月三十一日から昭和二十一年十月十日まで勤務しその間月俸金六十円乃至七十円を支給され同校当宿室で寝泊したり、附近の三流旅館の六畳一間に相客三名と合宿したりして通勤していた。授業は一週十時間、これを月曜日の午後から水曜日の午前まで正味二日間に割当て按配し、水曜日の午後夜行列車で出発家郷に帰り約四日間滞在して、小作料債権等の取立て、借金債務等の弁済、動不動産等の管理処分同原告に課された租税(住民税、家屋税、所得税、水利組合費その他の公租公課)の納付、祖先や今は亡き家族の祭祀供養、親族故旧の引見、接待、社交その他家事万端を掌握処弁し、翌週月曜日の午前学校に帰着していた。のみならず、右奉職中、昭和十九年十一月四日汽車で仙台市から吉岡町に帰る途中、列車の転覆により大怪我をし、爾来昭和二十年七月まで九箇月間休講して家郷で医師の治療を受け養生した。なお、夏期休暇は二箇月、冬期休暇は一箇月あり又戦時中の国策による勤労奉仕や戦後の民衆の自忘自失による社会秩序の混乱のため休講続出しこれらの休講中は勿論家郷に帰省していたため、名目上の在職期間約二年六箇月中在校授業日子は正味僅かに六箇を出でず、その余の期間は前敍のように家郷にあつて家政の処理や、療養やに終始した。しかも右奉職は固より家族の生活費、否自己一人だけの生計の資を得るためではなく全然採算を度外視し、第三者から観れば稚戯にも類するであろう趣味を一日でも活かしてみたいという老骨の気紛ぐれから出たものでかの微々たる報給の如きは勿論煙草代にも足りる筈もなかつた。生存の糧を得るためならば小使銭にも足りない給料を貰うため多額の旅費や宿銭を自弁してまでおめおめ教職に留まる馬鹿はないであろう。(尤も同原告は右奉職中昭和二十年七月頃から昭和二十一年十月十日頃まで約一年二箇月間宮城県黒川郡吉岡町字小幡町で同町内会第二隣組世帯主として吉岡町から自己一人分だけの味噌、醤油、食塩の配給を受けたが、これは当初約一年四箇月間は家郷からこれらの物資を汽車で運んでいたところその後交通地獄のためかような運搬は至難となり且その筋の取締も愈々厳重になつたので万已むを得なかつたからでありこれを以つて同原告の生活の本拠が吉岡町にあつた証左だなどというならば真に噴飯事というべきであろう。)

又同原告に右在職当時も依然家郷に父祖伝承の田畑四、五町歩を所有していた外宅地四百五十坪、木造萱藁葺二階建住宅(百五坪)、木造柾葺二階建離座敷(十二坪)、林檎保管用木造亜鉛葺平家建倉庫(八坪)、同上納屋(五坪)、木造柾葺平家建浴場(二坪)、同上便所(二坪)各一棟及び土蔵二棟(各十二坪)等を所有し右住宅及び離座敷には仏壇、位牌、家系譜、家具その他の調度品を据付け若くは所蔵存置し、倉庫、納屋には農具、林檎、野菜その他の収穫物を保管し、土蔵二棟には全家族の衣類夜具その他貴重な家財什器等が充満していた。なおこれ等の建物の附近には原告家の先祖代々の菩提寺、墳墓が存在し、家族の結婚式、祝祭、供養、葬式等に至るまで一家の諸行事万端は総て右住宅又は菩提寺で執り行われていた。そこで同原告の土着心、郷土愛は洵に熾烈なものがありこの老後の安住楽土を打ち捨て余生を煙草銭にも足りない端した金を儲けるためわざわざ知らぬ他国で落魄漂浪しようなどとは夢、露思つていなかつた。又思う筈などあり得ない。「数学教授という趣味を一寸活かしてみたい。がしかし気に入らねば何時でも罷めて帰るは勿論だ」という軽い気持でいわば中腰で奉職していたに過ぎない。

なお、同原告の二女野宮やよひは大正五年三月一日同原告の家郷で生まれ、青森県立弘前高等女学校卒業後同原告の家郷の本宅と同原告の弘前市大字富田字桔梗野所在別宅(この別宅は昭和十二年同原告の建設に係る木造亜鉛葺、平家建家屋約十一坪で同原告はこれを築造した理由は、当時原告の長男が国立弘前高等学校に、又やよひが前叙弘前高等女学校に各在学し日々家郷の本宅から弘前市まで約十里の遠路を通学しなければならず頗る不便であつたからこれを除くためであつた)との間を往来して両宅に居住し昭和十三年十二月八日千葉政夫を婿養子に迎え昭和十五年一月一日一男原告衷を儲けたが政夫が応召、同年六月二十三日支那江蘇省宜興県で戦死したのでやよひは原告衷を抱え寡婦として暮らしていた。そこで原告義弘が前敍のように教職に就いた頃から昭和二十一年三月三十一日同女が死亡するまで終始原告衷を連れて家郷の本宅に居住し同原告の代理人として家政万事を処理差配した外自ら又召使や日傭人を駆使して本宅周辺の畑五畝歩に桜桃を、同一反五畝歩に蔬菜を、同五畝歩に芋類を各栽培育成し、この間又原告義弘の妻野宮ちを(当六十二年)も〓々前記別宅と本宅との間を往来して両宅に居住して、やよひの仕事を指導し又はこれに協力していた。従つて仮りに百歩を譲り原告義弘が一時家郷を留守にしていたとしても事態は敍上のようであり又その妻子孫眷族一党が本人に代り又は本人のため法律上又は事実上家事万端を処弁主宰していた以上、固より同原告義弘を改正前の自作農創設特別措置法第三条第一項第一号同法附則同法施行令第四十三条に所謂不在地主を以つて論ずべきではない。

やよひ死亡後同原告は殆んど授業に従事せず家郷の本宅で暮していたが竟に同年十月十日その職を辞し家郷に引掲げ爾来本宅で妻ちを長男(開業医)夫婦及び原告衷と同居し又行政庁の許可を受け小作人から附近の青森県北津軽郡板柳町大字小幡字柳川七十四番地畑九畝四歩、同上七十三番地二号畑四反五畝十六歩、計五反四畝二十歩の返還を受けてこれを自作し原告衷は最寄の小幡尋常小学校に通学し目下第三学年生である。次に原告衷は父政夫戦死後、まだ母やよひ在世中昭和二十年九月一日頃祖父原告義弘から同原告所有の別紙目録一及び二(七)記載の田畑の贈与及びこれに因る所有権の移転を受け同年十二月二十七日所轄青森県知事から該移転の許可を受け昭和二十一年三月二十五日その所有権移転登記手続を完了し、次で同年九月二十七日原告義弘家からその附近の同上字柳川七十三番地二号に分家した(但し前敍のように依然原告義弘等と同居している)。

然るに被告青森県北津軽郡板柳町農地委員会は小作人野宮豊次郎、野宮金作等の策謀に動かされ((イ)野宮豊次郎は原告義弘の父の弟の子即ち同原告の従弟ではあるが、昭和二十一年三月三十一日やよひが死亡した際、豊次郎が同原告に、同女がその生前耕作していた別紙目録二(二)記載の畑一反五畝歩、同上(四)記載の畑八畝二十三歩の二筆を翌年度には必ず返還するから昭和二十一年度だけ賃貸されたしと懇願したので、同原告は騙されるなどとは夢露知らず、豊次郎の言をそのまま信用して期間を同年四月から十二月三十一日までと定めて無償で貸与引渡したところ豊次郎は右期限を経過してもこれを返還せず同原告が矢のように催促するや既に自作田畑約三町歩をも保有しているに拘らず強慾にも被告板柳町農地委員会に策動して前敍のようにこれを買収させた上、そのまま自己に売渡させよつて以つて「廂を借りて母屋を奪う」反逆忘恩を平気でし又(ロ)野宮金作は豊次郎の兄で同原告が曩に金作に別紙目録二(一)記載の畑三反七畝六歩を賃貸引渡したところ同人は原告の承諾を得ず擅にこれを豊次郎に転貸引渡した。ところでこの畑は同原告の自作地と隣接し、同原告においてこれをも共に耕作する方が便利であつたのでこれと、同原告が曩に他の小作人から任意に返還を受け占有中の同二(三)の畑六反四畝六歩とを即時交換賃貸しようと思い、昭和二十年十一月一日頃金作にその旨申出でたところ同人はこれを快諾した。そこで同原告は騙されるとは知る由もなく即時同人に右土地を引渡しなおその際小作料をも従前のそれの半額即ち中等玄米十四俵即ち五石六斗に減額したに拘らず同人は如何に催促しても右換地の引渡即ち反対給付を肯んせず既に田畑約二町歩を保有自作するに拘らず、非道にも被告板柳町農地委員会に策応して、右両地を買収させた上そのまま自己に売渡させたものでその情甚た憎むべきものがある)原告両名及一族一門が既に家郷に安住している現状を目撃しながら無暴にも昭和十九年四月以降昭和二十一年十月十日まで原告義弘の住所は宮城県黒川郡吉岡町字小幡町にあり、その家郷に無く、又原告衷は昭和二十年十一月二十三日当時はまだ原告義弘から毫も農地の贈与を受けていず同日現在本件農地は全部不在地主原告義弘に帰属していたから改正前の自作農創設特別措置法第三条第一項第一号同法附則同法施行令第四十三条に該当するものとして昭和二十二年九月十一日別紙目録一記載の稲田につき又同年十月二十九日同二記載の田畑につき何れも同法により買収計画を樹立した。そこで原告両名は同年十一月五日同委員会に別紙目録二記載の田畑につき前敍事情を具陳して異議の申立をしたところ同月十三日棄却の決定を受けた。よつて同月三十日更に被告に同一理由を以つて訴願したところこれ又被告は昭和二十三年五月二十六日原告等の訴願棄却の裁決をした。

しかし、前記買収計画決定及びこれを是認した訴願の裁決は前敍のように多々違法不当の廉があるのみならず、原告衷はまだ当十歳の幼年で夙にその両親を喪い目下祖父母原告義弘夫婦の手で養育されてはいるが老齢生い先短い祖父母が他日他界すれば天涯孤独、従つて本件買収によりその所有地を失えば他に一坪の土地すら保有しない関係上、忽ち路頭に迷うに至るであろうことは想像するに余りがある。かくてはさらでだに有福な生活をしながら剩つさえ本件農地の売渡を受け所有権を取得した旧小作人に比し著しく権衡を失し、本来農地の公平な再分配を主眼とする農地改革の精神にも背戻するに至るであろう。

以上の次第であるからここに請求の趣旨記載のような判決を求めるため本訴に及ぶと陳述し被告の抗弁事実を否認した。

(立証省略)

被告板柳町農地委員会は先づ本案前の抗弁として別紙目録一(一)記載についての原告衷の訴はこれを却下するとの判決を求めその理由として別紙目録一(一)記載の田についての自作農創設特別措置法による買収計画決定が原告衷主張のように昭和二十二年九月十一日されたとすれば右田についての本件訴は昭和二十二年十二月二十六日施行自作農創設特別措置法附則第七条により同法施行の日から起算して二箇月以内即ち遅くとも昭和二十三年二月二十六日までにこれを提起しなければならないのに、右期間を徒過した昭和二十三年七月十二日提出されたものであるから訴訟条件を欠如し、不適法としてこれを却下しなければならない。仮に右抗弁が相立たないとしても、同原告は、当初、青森県農地委員会を被告として同委員会が被告板柳町農地委員会がした農地買収計画決定を是認した訴願裁決の取消を求めながら、その後被告を同被告に変更し、同被告のした農地買収計画決定の取消を求めるは明かに請求の基礎を変更するものであるから新訴は到底不適法として却下の運命を免れないと陳述し、本案請求に対し、被告両名訴訟代理人は各該当原告の請求はこれを棄却するとの判決を求め答弁として原告等主張のような各買収計画決定異議の申立、その棄却の決定、訴願、その棄却の裁決、知事の許可、所有権移転登記及び分家があつたことは各これを認めるが爾余の事実は全部これを否認する。

原告義弘は昭和十三年以降昭和二十一年十月十日頃まで家郷に居住せず殊に昭和十九年四月以降昭和二十一年十月十日頃までは高等女学校教師として渡世するため生活の本拠を宮城県黒川郡吉岡町字小幡町に移し、小幡町内会第二隣組世帯主として吉岡町から米麦等の主要食糧、味噌醤油等の調味料の配給を受けていた。原告義弘が吉岡町に転住不在中家郷の同原告所有家屋に訴外野宮兼次郎、野宮石五郎が相次いで居住し、又同原告所有地の管理は訴外野宮金作がしていた。尤もその間訴外亡野宮やよひが近隣畑の一部に林檎樹を植栽していたが労務の大部分は訴外野宮豊次郎、野宮金作に委ねていた。又昭和二十二年四月十日同原告は別紙目録二(三)記載の畑六段四畝六歩の所有権を小作人金作において本法により取得することを同人の申出により承諾した。又原告衷はその出生(昭和十五年一月一日)当時から昭和二十二年六月頃まで弘前市に居住していた。そして本件買収計画は改正前の農地調整法第三条第一項第一号同法附則同法施行令第四十三条により昭和二十年十一月二十三日当時原告義弘が不在地主であり、原告衷がまだ原告義弘から義弘所有の農地の所有権の移転を受けていなかつた(仮にその後受けたとしても)ことを前提としてされたものであるからそうでないことを前提とする原告等の請求は到底相立たないと陳述した。(立証省略)

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